大好きな彼を待ちながら。
 いつ来るか、いつ来るかと胸を躍らせる。
 あぁ、あの人は今何をしているのか。
 ただ待つだけのこの時間すら、彼女にとっては愛おしい。

 そんな、彼氏を待つ彼女の心情から遠く離れた気持ちを抱え、リョーマはボーっとその場に突っ立っていた。
 その場とは、待ち合わせ場所に指定された男子テニス部部室であり、そこから出てくる他の部員達の容赦ない視線に晒されながらも、リョーマは待っていた。
 ああ、面倒なことになってしまった、というのが嘘偽りの無い心からのリョーマの気持ちである。今の今まで放置状態だったのに、ただ廊下で偶然にもバッタリ会ってしまったがゆえのこの状況。涙が出てくる。
 それに、リョーマ自身、己のテニス部活動のせいで非常に疲れていた。もう、二度三度と欠伸をしている。立っているために眠気に身を任すことは出来ないでいるが、もしこのまま放置状態が続くようであれば、このままでも寝てしまうかもしれない。それくらいに眠かった。身体を休めたかった。
「……ぁふ」
 また欠伸。じわりと浮かんだ涙をパシパシと瞬きすることで消そうとしてみる。それすらも眠気から逃れるための手段になった。
「待たせたな」
 言葉と共に現れた跡部景吾をちらりと見て、リョーマはふぅ、と一息。
 ようやく待ち人来る、だった。



















 〜彼と彼女の恋愛事情その3〜

『 彼と彼女のスタンス 』





















 まず最初に衝撃を受けたのは、跡部景吾、徒歩帰宅であったことである。
 何しろ、彼が車での登下校をしていることは有名だ。その跡部景吾が、たかが彼女との帰宅のために徒歩を選ぶなど、リョーマには全くもって予想外のことだった。
 もっとも、車で送られてもそれはそれで困るので、徒歩帰宅で全然問題はないのである。ただ、跡部景吾の意外な人間像を知って驚いたというだけのことであって。
 しかし、その衝撃も最初のうちだけで、段々と時が経つにつれ、それどころではなくなってきた。
 会話が無いのである。
「……………」
 もう、何を話していいかも分からない。リョーマ自身、別に話したいこともなければ、正直なところ話したくなんてないのだが、妙に沈黙が重苦しいのだ。しかも、なんとなく、何か喋りやがれという妙な圧力が跡部景吾から発せられてる気がしてならない。
 基本的に、跡部景吾という人間は受身なのであろうとリョーマは思う。
 何しろ、告白されて付き合ってやる側である。彼女側の要望にただ応えてやっただけなのだから、その彼女について知ることなど一つとしてないはずだ。逆に彼女になる側は跡部景吾が好きで、付き合っているのだから、彼に関する知識は豊富であると考えられる。つまり、話題を提供せねばならないのは、彼女側ということになるのである。そう、彼女であるリョーマが話題を提供せねばならないのだ。
 と、そこまで考えてリョーマは気付く。
 むしろ、このまま沈黙を貫いて、つまらない彼女というレッテルを頂き、サクッと振ってもらうってどうだろう。それって一番早い恋人関係解消方法じゃあなかろうか。
 リョーマの表情がパァッと明るくなった。
 そうだ。それがいい。それならばきっと何の問題もなく終わる。終わってくれる。
 気分が楽になり、歩きにも余裕が出てきたリョーマは、辺りを見回した。ふと、跡部景吾の持つラケットに目が行った。
 そういえば、彼はテニスをやっている。しかも、かなり強い部類に入っていた気がする。どういったプレイスタイルなのだろうか。まじまじと跡部景吾の体つきを眺めてみるが、筋肉の付き方からは想像もつかない。
 一度気になりだすと、気になって気になって仕方ない。決め技はどんなのか、とか、ライバルは誰なのか、とか。やはり、一テニスバカとしては、テニスをやってる人間、それも強い人ならば色々な話をしてみたくなるのは性である。
「跡部先輩のプレイスタイルってどんなのなんスか?」
 そして、リョーマは己の欲望にあっさり負けた。これ以上無いくらいに軽々と最初の予定を覆した。
 興味津々、といった様子のリョーマをちろりと横目で見て、跡部景吾は肩を竦めてみせる。
「見てればわかるだろ?」
「見てないからわかんないんスけど」
 事実である。そもそも、男子テニス部と女子テニス部の試合は重なることが非常に多い。そして練習中なんか相手の練習を見ることなど不可能。その状況で、どうやって跡部景吾のプレイスタイルを知ることが出来るというのか。
「本当に知らねぇのか?」
 こく、と大真面目に頷くリョーマをマジマジと跡部は見つめる。
 どうやら嘘は言っていないようだということがわかり、軽く息を吐いて跡部が説明を始めた。
「基本的にオールラウンダーだな。で、相手を追い詰めて倒すことが多い」
 あまりにも軽く明かされたので、少しビックリするリョーマである。こういったことは、自分の不利を招くこともあるので、慎重さが必要だったりもするのだ。
「なんで、そんな簡単に教えてくれたんスか?」
「あ? ああ、この程度は、雑誌にも載ってるからな」
 そう言われて納得である。つまり、跡部景吾というテニスプレーヤーは研究の対象であり、その程度の情報ならば誰に明かそうとも問題はないということなのだろう。
「んなことより、お前敬語使うんじゃねぇよ。しかも体育会系の」
 パチクリと瞬きを一つして、リョーマは恐る恐る尋ねた。
「あー…じゃ、タメ口で?」
「ああ。構わねぇ」
 その言葉を受けて、リョーマはほぅと息を吐いた。実は、敬語を使うのが苦手なのである。アメリカ育ちのリョーマにとって、敬語を使用することほど難しいことはない。それも日本語で、なんて更に難解だ。
 そんなワケで、敬語らしい敬語なんて使えやしないし、使ってても時々怪しい場面があったりもする。お許しを貰って嬉しい限りのリョーマなのである。
「ついでに、苗字じゃなくて名前で呼んどけ」
 ニヤッと笑った跡部景吾にリョーマは考える素振りを見せた。
「景吾先輩?」
「先輩もいらねぇ」
 それは、名前の呼び捨てでいいということか。
 今までの跡部景吾の彼女と呼ばれる存在が、彼をどのように呼んでいたか思い出してみる。
「じゃ、景吾で」
 考えてみれば、先輩後輩関係なく「彼女」は「景吾」と呼んでいた。そう、それが一種のステータスだったような気がする。リョーマ的には全く持って不必要なステータスだが。
「ああ、リョーマ」
 薄く微笑む跡部景吾、もとい景吾に対して同じように微笑んでみせ、そしてリョーマは、はた、と気付いた。

 アレ? 呼び捨てだし微笑みあってる?
 これって要するに、仲良くなってないか?

 というか、完全に「彼女」のスタンスに収まってしまったような気が、ひしひしとするのは気のせいだろうか。
 景吾の隣、テニス会話で盛り上がりながら、リョーマは己の手痛いミスを今更ながらに猛烈に後悔するのだった。