翔吾が笑った。
ママ、とそう、唇が形作る。それが。【リョーマ】に変わったのはいつのことだっただろうか。愛しい存在は、けれど何も変わることなく。たとえ呼び方が変わろうとも、自分へ変わることのない惜しみない愛を与えてくれるのだ。
可愛い可愛い、景吾と自分の子供。
どんどん、大きくなっていくこと、純粋に嬉しくて。愛しくて。
それこそ何度でも言った。
愛している、と。
【 彼方へ 】 後編
その場の時間が、止まってしまったみたいだった。
やがて、静まり返った空間に、侑士が掠れた声を響かせる。
「ちょぉ待て。頭ん中グチャグチャで、きちんと整理出来てへん。
自分、リョーマの子供で。んで、跡部の子供?」
「そう」
翔吾が頷いて、しばらくして。侑士の顔が、歪んだ。泣きそうな顔に、なった。
「…………侑士」
「────なんやねん、それ…」
ポツンと呟かれた言葉は、まるで搾り出すような声で。悔しそうに、苦しそうに、侑士は呟いた。
「ホンマ――なんやねんな………」
ぐしゃぐしゃと、頭を掻いて、そう言う侑士に、リョーマは拳を握り締めて、俯く。他に何も出来なかった。どうすることも出来なかった。
「跡部にも話してへんのやろ? せやろな。跡部がもしこのこと知っとったら、あんな結婚せぇへんな」
「駄目、だよ。景吾には言わないで」
「なんでや! おかしいやろ! リョーマ一人の問題とちゃう!」
「俺が勝手に産んだから。だからさ、いいの。
侑士、俺はね、このままがいい」
翔吾と二人、今までと一緒。二人で、生きていくことが、一番いいことだと思うから。
「せっかく、幸せになれるのに、邪魔する権利なんて俺にはないよ。ううん、違う、最初からなかった」
好きで好きで大切で。そう、誰よりも強い人だった。そして綺麗な綺麗な人だった。
だからこそ、リョーマは惹かれたし、愛したのだ。
縛り付けることなんて出来るはずもない。
子供が居るという、それだけのことで結婚を強制するなんて、出来るわけがなかったのだ。
「景吾は幸せにならなくちゃならない。俺は、翔吾がいれば幸せになれる。だから、このままでいいよ」
このまま、景吾が、愛する女性と結婚して。そして子供を作って。幸せな生活を過ごす。それが一番いいことだ。
「…………リョーマ……」
ひどく辛そうに、侑士が呟いた。
それに笑って、リョーマは頷く。これが、一番の方法なのだ、と。
景吾の幸せへと結びつく道。それは、自分の傍には存在しない。
「母は強し言うんはホンマやな」
覚悟した自分の瞳を見据えて、侑士が笑った。
結局侑士は何も言わないという約束をしてくれた。
その、リョーマの願いを受け入れてくれたことを心底嬉しく思いながら、来たる日を待つ。
結びつくことのない自分と景吾の線が、たった一度だけ、再び繋がる瞬間を。
こちらの事情に詳しくなった忍足侑士は、不思議なほど越前宅を訪ねるようになった。
全く遠慮も何もない侑士に、翔吾は懐く、というよりは面倒くさそうであるが相手にするようになったようだった。
その状況に、なんとなく幸せな気分になってしまうのが可笑しくて。
リョーマはそんな二人が目に入るたびに笑ってしまうのだ。
嫌味を言う翔吾が、実は侑士を嫌っていない事実に。
そんな翔吾を侑士がとても可愛がっているのが分かるから。
そう、二人が実はとても仲が良いのは知っていた。
そして、二人共、リョーマを大事に思っているということも。
「…翔ちゃんに弟か妹が出来るんやて」
だから、その会話を聞いてしまったのは単なる事故だ。
「は?」
「せやから、弟か妹が」
「リョーマが妊娠した気配ないけど?」
「……ちゃうて」
「……俺には父親はいないから、弟も妹も出来ない。それだけ」
淡々とした口調で翔吾は言って、侑士は苦笑い。
リョーマも、隠れながら苦笑いだった。
「わざわざ俺だけ呼び出すから何かと思ったし。リョーマにその話洩らしたら殺すよ」
「言うわけないやろ」
凄む翔吾に侑士は真剣に答えた。
生憎、リョーマはその事実を知ってしまったわけだけれど。
しかし、それが起こりうる、というのは既に分かりきっていたことだった。
その子供と、道端でバッタリ、なんて面白いかもしれない、なんて考えていたことがあるくらいには。
だから、気にしなくてもいいのに、なんて、なんて、優しいんだろう。
それが自分の子供だということが誇らしい。
ああ、本当に。
あまりにも、翔吾と侑士が優しくて、涙が出そうだった。
翔吾には、全てを話した。
自分が景吾と別れることになった理由も全てを話した。
自分がとった行為がどれだけ景吾を傷つけることになったかも全て。
あの時に、子供のための結婚なんてしたくなかったのだと。
愛し愛される、共にいたいがための結婚だけが自分の望みだったのだと。
何より、景吾には他にもたくさんの選択肢があり、それを狭めてしまうかもしれない自分が嫌だったのだということを。
最後には勿論、翔吾は望まれた存在だったと告げた。
自分のお腹の中に居た頃から、今も、そしてこれからも、ずっと望まれた存在であることを翔吾には告げた。
父親を奪ってしまったリョーマに出来る、謝罪と愛の告白だった。
だから翔吾は、リョーマにその話を聞かせぬようにと思うのだろう。
本当に優しくて、何よりも自慢の息子だ。
そんな、気を使ってくれている翔吾の気持ちを無碍には出来なくて。
リョーマはそっとその場を後にした。
何も知らない、顔など幾らでも出来る。
それが翔吾のためならば。
大きなチャペル。
ここで行われる幸せな結婚式。
それを傍観する自分、というのが想像できなくてリョーマはどうしようかと思う。
なんだか、その場に自分がいることで何かが壊れてしまうような気がしたのだ。
だから、リョーマは姿を現す気には到底なれなかった。
実際には、幸せそうな花嫁の姿だとか。
幸せそうな景吾の姿だとか。
見れないだけなのかもしれないけれど。
心配していた侑士に、先に行くように伝えたのはつい先ほどのことだ。
翔吾と母である倫子は、広大な敷地内を探検しているはず。
敷地内にあるのはチャペルや披露宴を行うための建物など様々だから、翔吾は退屈しないはずだった。
そんなチャペルの一つを前に、リョーマはその中に入れなくてどうしようかと二の足を踏んでいた。
侑士には、景吾の怒りを甘んじて受け入れる、などと言っておきながら本当にとんだ体たらくだ。
けれど、なんとなく、行ってはいけないような気がした。
この場所は本当に幸せに包まれて、結婚式が行われるべきところで。
新婦のお腹には子供が居て―――(自分には出来なかったけれど)
景吾に守られて―――(景吾に全てを委ねることなんて)
結婚するのだ―――(子供を結婚の理由にするなんてことも)
その二人を、壊しかねない因子を持つ自分が祝福するなど、どう考えてもおかしい様に思えて。
どうにも入っていけないのだ。
それを侑士はきっと、辛いのだろう、と思ってくれているに違いないのだけれど。
勿論、辛くないのではない。だって、景吾はリョーマにとっていつまで経っても最愛の人なのだろうから。その人が自分以外と幸せになろうとしていることは、心のどこかが、歓迎していない。
けれど、それを上回る、祝福する気持ちがリョーマにはある。
傷つけた自覚があるからこそ、景吾には幸せになってほしいのだと純粋に思える。
だから、この位置がきっと正しい。
影から、景吾の幸福を感じることこそが。
そうこうするうちに、花嫁がチャペルの入口へと現れた。
幸せそうな微笑をその口元に浮かべて。
ああ。
これから景吾の幸せな日々が始まるのだ。
そう思ったらリョーマの瞳から涙が溢れた。
これではまるで、自分が結婚するかのようだ。
馬鹿だなぁ、と思ったら、もっと涙が出てきた。
厳かな音楽と共に、花嫁は入っていく。
父親の腕を借りて、ゆっくりと中へ入っていき、そしてチャペルの扉は閉められた。
リョーマは黙って上を向いた。
今、自分が何を感じているのか、考えるつもりはなかった。
ただ、早く翔吾に会いたいだけだった。
ようやく涙も乾いた頃、リョーマは不審な人物がチャペルの扉付近をうろついているのを見た。
一体全体誰なのだろうかと思う。
ただ、この敷地内に入れたということは、恐らく招待された誰かであるということだ。
そう、やはり跡部財閥の者の結婚式ということで、そういった点では厳しくチェックされているのだ。
ぼんやりしていたら、男はチャペルの中へと入っていった。
そして、何やら中がひどくざわめいた。
外に居る自分には何が何やらさっぱり分からないのだが、一体何が起こったというのだろう。
女の叫び声がする。
それがやがて、泣き声へと変わった。
本当に、何が起こってるのか。
不安になってきたリョーマだったが、次の瞬間に驚かされる。
チャペルの扉が開き、ぞろぞろと招待客と思わしき者達が出てきたのだ。
通常は、もうしばらくかかるだろうし、何より、チャペルに見向きもせずに歩き去っていく。
その中に侑士の姿を見つけ、リョーマは小さめに手を振った。目ざとくそれに気付いた侑士がこちらへとやってくる。
「ちょっと、何があったの?」
掴み掛かるようにして侑士に尋ねれば、あー、と濁すように笑う。
その様子に何か良くないことでも起こったかと不安になる。
「……まぁなんちゅうか、恐らく跡部にとっては予想通りなんやろうけど、何も知らん俺らにとっては寝耳に水の出来事が、やな」
「意味がわかんない。簡潔に」
「花嫁さんな、実はバツ一で子供がおって。今ついさっき、別れた旦那っちゅうのが乗り込んできたんやなー。
――なんと、お腹の子供の父親は俺だ!って」
「え…」
「まぁ、跡部が内輪だけの結婚式挙げる辺り、おかしいとは思っとったんやけど、まさか子供の旦那が他におったとはな」
身内だけやったら、不名誉な事件が起ころうとも恐らく外には漏れへんからな、と侑士が言うのを聞いてリョーマは呆然となる。
だって、幸せになるのではなかったのか。
それを見せ付けるために、リョーマをこの場に呼んだのでは。
「跡部が何考えとるかはわからんけど。少なくとも跡部が幸せやないっちゅうことは確かやな。
もしかしたら、それをリョーマに見せ付けることが、跡部なりの復讐、なんかもな」
きっと、そうなのだろう。
景吾が何を考えているかなんて、リョーマには決してわからないけれど、だけど。
景吾がリョーマを憎く、思っているのはきっと事実で。
「………景吾」
本当に、どうしたらいいのだろう。
彼なりの幸せを掴んでくれさえすれば、それだけでいいのに。
それがとても傲慢な願いだと知っている。
傷つけた自分が望むべきでないことも。
「……リョーマ、泣くんやない」
侑士に言われて初めて気付く。
ああ、泣いているのか。
「泣く権利ないのに、涙出る。最悪」
最低だ。
「俺は、どうしてこんな……」
唇を噛み締めて蹲る。
侑士が心配するように肩に手を置いてくる。
その優しさがまた辛くて、涙は止まらなかった。
いつまでそうしていただろう。
呼ばれたような気がしてぼんやりと顔を上げれば、翔吾がそこにいた。傍にいるはずの母、倫子の姿は無い。しかし、代わりにもっと歳のいった、初老の女性が居た。
「リョーマ、大丈夫だって」
何が何だか良く分からないが、翔吾はそう言って来る。
首を傾げれば、女性も安心させるように頷いてくる。
「そうよ、大丈夫。翔吾くんの言う通りよ」
促されるままに立ち上がり、翔吾と女性に連れられて歩き出す。後ろからは侑士がついてきて。
一体、何が起こっているのか、リョーマは今それを考えられる思考状態ではなかった。
ただ、景吾が不幸である、と見せ付けられて、絶望感すら抱いた。
どうしようもなくて、悲しくて、でもその悲しさすら抱くことはおかしくて。
だって、それは。
自分が幸せであるからこそ抱けるように思えて。
顔が歪む。
けれど、傍にいる翔吾はそれに気付いたように仕方ないなぁ、とばかりにため息を吐いて。
いつの間にやらあった、目の前の扉を開いた。
そして開かれた先にあったのは。
「なんだ、お前達」
忘れるなんて出来やしない、その声。
「跡部やん。って、アレ、ご両親揃って何しとるん?」
「事後処理に決まってるだろうが。ったく、面倒くせぇったらねぇぜ。
それより、そこの一般人二人をさっさと……」
「あら、お母様じゃありませんか」
こちらを睨み付けるようにして景吾が言おうとした言葉に、重ねるように景吾の母が言い放った。
そこで初めて、自分を連れてきた初老の女性が景吾の祖母であると知る。つまりは、翔吾の曾祖母だ。
驚いたようにそちらを見れば、安心させるように微笑んで見せて。
唐突に、言い放った。
「ねぇ、この子、誰かに似ているとは思わない?」
――あぁ、まさか、そんな。
翔吾は何もかも分かっているように何も言わない。
侑士も、口を閉ざしている。
リョーマは、縋るように翔吾に手を伸ばした。
「お母様?」
不審そうにこちらを見つめる、景吾と、その両親に、祖母である隣の女性は微笑む。
「ねぇ景吾。貴方はそれに気付けないほど、愚かなのかしら?」
優しい口調で、けれど責めたてるようにして言う。
何を言っているのか、という表情で翔吾を見ていた三人は、何かに気付いて、そして真剣な表情へと変化する。
「……どういうことだ」
景吾の言葉に、リョーマは身体を震わせた。
「この子の名前は翔吾というの。可愛いわよねぇ、本当に。
ただ一つ難を言えば、生まれた時、成長する姿、それらを見たかったと思うわ」
景吾の祖母の言葉に、リョーマは思わず嗚咽を洩らした。
そう言われて、初めて気付かされた。
そうだ。
どうしてその事に気付かなかったのか。
孫に、ひ孫に、会いたくない者などいないのに。
その成長を共に見続けたいに違いないのに。
それを身勝手な理由で奪ってしまった。
「ごめ、なさっ…!」
「リョーマさん、泣かないでいいのよ。貴方の選択は、きっとその時の最良だったのでしょうから。
貴方はきっと、それ以外に選べなかったに違いないのよ。
私は、悲しいことに、景吾の事を良く知っているから。それに貴方が景吾を愛していただろうことも」
「でもっ! 俺は、俺は……」
「これから翔吾くんを見れるもの。それだけでも良かったわ。知ることが出来て感謝しているくらい」
突きつけられた真実に、景吾は呆然と翔吾を見つめていた。景吾の両親も同じく呆然と翔吾を見つめている。
あまりにも景吾にそっくりな翔吾を見て。
そして何より、景吾の祖母とのやりとりを聞いて。
事実に、気付かないはずなんてないのだから。
「別に俺個人が会うのはいいけど、リョーマは駄目だからね。さっきの約束は守ってよ?」
ふん、と言い放つ翔吾に、翔吾にとって曾祖母にあたる女性は楽しそうに笑う。
「そうね。リョーマさんには私たちが何をするということもないわ。
たまに、翔吾くんに会わせてもらえるだけで、私は幸せだもの」
そう言って笑う女性に、ようやく我に返った景吾が呟いた。
「リョーマ、どういう、ことだ…」
景吾の言葉には衝撃と悲しみが溢れている。そしてどうしようもない苛立ちがそこには隠されていて。
その表情に、リョーマは、正直に話さなくてはいけないのだと覚悟を決めた。
「……見たまま、だよ。景吾、俺はさ、景吾を縛り付けたくなかったんだよ」
自嘲気味にそう呟く。
「アンタが、絶対、結婚しようって言い出すのは目に見えてた。
そのために結婚、なんて。景吾の選択肢を潰す行為だし。
それに、俺、愛されてる自信はあったけど、飽きられない自信なんて持てなかった。アンタには俺以外にも女の人いっぱいいたし、俺じゃなくてもいい人はいるって、思った。
何より、アンタは俺の前で他の女の人の子供を嫌がったから。それで言い出す勇気、なくなったんだ。
俺が、単なる臆病者ってだけなのかもしれない。景吾のため、なんて言いながら、ただ怖かった、それだけなのかもしれない」
遊びだと言っていた女の人たち。たくさんたくさんいた、景吾の隣に立つ存在。
その女性達とは違い、恐らく、本命、という枠にハマっていたのだろう自分。
そして、景吾は自分を愛していたから、だからこそきっと、結婚を申し出たはずだ。
例え、子供を嫌がっていたとしても。
それがどうしようもなく嫌だった。リョーマには耐えられなかった。
景吾のため、であることは勿論だが、それと同時に、リョーマが景吾を選べなかった、というのも事実だ。
リョーマは、自分の心の奥底を話して、逆にスッキリした気持ちになっていた。
「そうね。私も、きっとリョーマさんと同じ選択をするでしょう。
あの時期の景吾と結婚なんて出来るはずがないもの」
同調するように景吾の祖母。俯く景吾がどんな表情を浮かべているかはわからない。
そして、それが上げられたとき、その顔にあったのは苦笑だった。
どうしようもない、自分をあざ笑うような、そんな笑み。
「つまり、リョーマには他に好きな男なんていやしなかったわけだな?」
何の話かとリョーマは景吾を見た。その瞳は思いのほか真剣で、それがとても意味を持つものだということがわかる。
黙ることしか出来ない自分に、景吾は答えを見出したようだった。辛そうに顔を歪めて、手で顔を覆う。
「………どうしようもねぇな」
搾り出すような一言に、リョーマはその景吾に視線を送った。
「こんな、……自分を殺してぇって思ったこと初めてだ、くそ」
そう呟いて、景吾は脱力したようにソファに座り込んだ。
皆、疲れたように顔を隠す景吾を見ていた。そして、その悄然とした様子に、声もなく見つめることしか出来ない。
しかし、気を利かせた皆がそっと扉の外へと出て行く。
景吾の祖母が、自分を見て肩を竦めて見せた。翔吾はといえば、憮然とした表情をしてはいるが、何も言わずに外へと出て行く。
誰も居なくなった部屋で、リョーマは景吾と二人っきりだった。
しん、と静まり返った部屋に、二人だけ。
「ねぇ」
リョーマが声をかければ、景吾はゆっくりと顔を上げた。その、疲れた表情にリョーマは泣きそうになりながら、ずっと言ってみたかった言葉を言った。
「アンタはさ、俺が、まだ愛してるって言ったら、笑う?」
景吾は顔をゆがめた。
まるで、今にも泣きそうな表情に。
そして、景吾は言った。
「じゃあお前は、俺が、ずっと愛してたって言ったら笑うか?」
「……え?」
驚いて固まって、景吾を見たら、その景吾は立ち上がってこっちへやってきた。
まるで、しがみ付くみたいに抱きしめられて、間髪居れずに唇を奪われる。
息もつかせぬぐらいの激しさで唇が、舌が、交わる。
近くで見る景吾の瞳は、少し潤んでいた。
「リョーマ、リョーマ…」
その声があまりにも切なくて。
リョーマは瞳から涙が溢れるのを自覚した。
「けい、ご…」
二人して辛い表情浮かべて、片一方は泣いて、片一方は泣きそうで。
でも、幸せで。
突然、掬われるように頬を掴まれ、上を向かされる。
そして、景吾はリョーマのすぐ傍で微笑んだ。
「なぁ、リョーマ、愛してる。結婚してほしい」
景吾の囁き。
リョーマは目を見開いて、そして固まった。
「……子供が欲しいんだ。俺と、リョーマの、子供が…」
また唇が触れあった。
その先にある懇願するような瞳と。
景吾の、言葉。
それは、昔を取り戻すように――
回帰する。
「……本当に?」
「ああ。俺とリョーマと、翔吾、三人で暮らしたい。翔吾の成長をずっと見ていたい」
俺の、子供の―――成長を。
景吾のその言葉に後から後から涙が溢れた。
ただただ嬉しかった。
今の言葉で、翔吾と景吾が本当の親子になれたのだから。
景吾が、翔吾を望んだ。
それは、だって、景吾が翔吾を愛しているということ。
「当たり前じゃん。景吾は、翔吾の父親なんだから」
見たい放題に決まってる。ずっとずっと、翔吾が嫌がっても、見ていられるんだから。
リョーマの言葉に、景吾はリョーマの頭を抱えるようにして抱きしめた。
そして震える景吾の身体。
だから思わずリョーマは言った。
「泣かないでよ」
背中を撫でながら。
「俺、涙、止ま、らない、じゃん」
「うる、せー…」
こもった声の文句が聞こえて、リョーマはクシャッと笑った。
幸せだ、と思う。
愛しい、と思う。
「愛してる、景吾」
そう言えることが、本当に奇跡だと。
そう、思う。
「……リョーマ、しあわせ?」
翔吾が呟く。
リョーマは笑う。
「まぁ、幸せかな」
右隣には景吾。そして左隣には翔吾。
「ふぅん、ならよかった」
翔吾の言葉に景吾もまた笑った。
「さっさと母離れしろよ、息子」
そう言う景吾を睨み付けて翔吾は言い放った。
「リョーマは俺が一番好きなんだからいいんだよ」
「あ? ふざけんなテメェ」
「んで俺もリョーマ一番好きだから」
「俺のが好きに決まってるだろうが」
「嘘だね」
「嘘なわけねぇだろ」
二人の喧嘩が自分を挟んでなされることが、なんだか妙に楽しい。
こんな毎日がきっとこれからも続いていくのだろうと思うと、なんて幸せなのだろう。
とはいえ。
うるさいことはうるさいのも事実で。
「ちょっと二人共いい加減にしてよね」
リョーマが言えば、静かに睨みつけ合う二人。
思わずため息が出るのは仕方のない話ではあった。
得たものは。
不変の幸福と。
いとおしい日常
翔吾が愛しい。
景吾も、愛しい。
そして、その二人と共に在れる幸福のときが。
何よりもいとおしくて仕方ないのだ。
Afterword
誠にお待たせいたしました。これにて彼方へ完結です。応援いただいた皆様、有難うございました。
色々と足りない部分はありそうですが、今の自分の精一杯です。少しでも楽しんでいただければと思います。