声が聞こえた。

生を貪る声。

ようやく、この世界に生を得られた喜びの声。



涙が出た。












【 彼方へ 】 中編












「翔吾クンはどれが好き?」
「コレ」
「ちょっとリョーマ、テニスラケット選んだわよ」
「知らないしそんなこと。俺は特に何も見せたり教えたりしてない」
「ところで、ねぇ、リョーマも、母親になったんだから俺なんて言わずに…って似合わないわね。リョーマが私、なんて言ってるトコ見たくないもの」
「それ、アレクにも言われた」
「あら、あの子日本語喋れたかしら?」
「なんか…俺が日本行ったって聞いて、いつか後追っかけていくために学んだとか言ってたけど…」
「………あらそう」
「で、俺が入院しに、しかも子供産みに来たことに凄いショック受けてて面白かった」
「アレクは、リョーマが大好きだったものねぇ」
「そうだった…?」
「俺アレク嫌い」
「あらあら翔吾クンはアレク嫌いなの?」
「だってリョーマにベタベタくっ付く」
「ぶっ…あらそうなの?」
「そう。凄く嫌」
「翔吾がアレク嫌いなのってそのせいだったんだ?」
「狙ってんの丸分かりだから凄いムカつく」
「………そう?」
「そう。んでリョーマがそれをあまり嫌がらないのが凄いムカつく」
「翔吾クンは意外とマザコンね」
「景吾いたら物凄いことになってたかも…」
「二人の戦いも面白そうだけれどね」
「景吾って俺の父親?」
「そうよ。翔吾クンのお父さん。でも秘密なの」
「何が?」
「アナタのお父さんは、アナタが生まれたことを知らないのよ」
「そうなの? まぁ俺はリョーマいればいいからいいや」
「普通、孫にそういうこと話す?」
「ちょっと孫なんて言わないで! 老けた気分になるじゃない!」
「あーもう…」
「おばあちゃん、老けてる?」
「…………おばあちゃんなんて呼ばないでっっ!」
「ぶっ!」









一段落ついたのは、実に六年後のことだった。仕送りは貰っていたから当面の生活に支障は出なかったものの、子供の事を考えれば仕事はしなくてはならなかった。そのため、仕事が安定するまでは、とリョーマは日本には帰国しなかったのだ。
それに、なんとなく、景吾のいる日本に帰りづらかったこともある。
けれど、ようやく、そうようやく六年経ってそのコトを吹っ切れたように感じられた。
五歳になった翔吾を連れ、リョーマはようやくアメリカから日本へと、孫の顔を見せに両親のもとへと帰ってきたのだ。
景吾に似た、その顔を持つ子供を。

両親は帰国をとても喜んだ。けれど、翔吾は、そう甘えるタイプでもなく、また構われるのをうっとうしがる傾向にあるため、二人はとてもつまらなそうにしていて。
仕方なく、じゃあ何か買ってあげて、と二人に提案した。
その結果、今、四人はデパートにいる。
父、南次郎は早々に戦線離脱したけれど。

「それにしても…ラケット、なんで欲しいの?」
「家にあったの見つけた。それ、リョーマ凄い大事そうにしてるの見たし」

くるりとラケットを持った手首を回しながら、翔吾が呟いた。

「ふぅん…そんなもの見つけたの?」
「あと、写真も…アレが父親の景吾?」
「ん。そうだよ…」

別れる前の、写真だった。唯一、残しておいた、捨てられなかった、二人で笑ってる写真。
まさか見つかってるとは思わなかった。

「なんか…リョーマが俺だけのモノじゃないのって…凄いムカつく…」
「俺は、ずっと翔吾だけのモノだよ?」
「ソイツと、俺とで、半分個じゃん」
「え……?」
「心ん中、ソイツもいる。それがムカつく」
「ちょっと二人とも! どういう会話してるのよ! それは親子の会話じゃないわよ!」

ラケットの会計を済ませていた母が、戻ってきて笑いながら言う。それについては同感だなぁとも思うけれど。
母一人子一人の、二人っきりの生活を送っていた自分達には、それが普通なのも事実で。

「だって俺、リョーマ好きだから」
「………マザコンもここまでくれば立派ね」

母親の言葉に、リョーマは苦笑した。
だって、明け透けもなく語られる、愛の言葉が。
まるで景吾みたいで。

「ホント、翔吾は景吾に似てるね……」
「俺が?」
「そう。似てる」
「喜んでいいの?」
「いいと思うよ」

ふわ、とリョーマが笑う。大好きな人にそっくりな息子、なんて素敵なこと。

「ホント似てる……」
「………リョーマが嬉しそうだからいいけど…」

むっつりする翔吾の手を握って、歩き出そうとした時だった。周りの空気が一気に変わったのは。
それは覚えのある感覚で、とっさにリョーマは人ごみにまぎれる。ざわつく人々の間に入り込んで、不思議そうにこちらを見てくる翔吾の手を、きつく握った。母親はといえば、同じく不思議そうな顔でこちらへと歩いてくる。
この、覚えのある感覚は。きっと。
そう。
忘れることなんて出来なかった、あの人の。

「すっげぇ美男美女……」
「マジカッコいいんだけど…」

そんな声がひそひそと交わされる中。悠然と歩いてくるのは───ああ、やっぱり。

「……………リョーマ……」

母親の声に、柔らかく首を振る。
二度と交わってはいけない線。それが自分と、景吾の生き方だ。
自信に満ちた顔とか。
あの迷いのない歩き方と。そして瞳。
全部あの頃のままだった。
さっきよりも強く、ギュウと手を握られて。笑った。

「何?」
「………あれが、景吾…?」
「そう。あれが、景吾」

景吾の腕に絡まる、女の人の細い腕に、悲しくならないわけじゃないけれど。隣にいるのが自分でないことに、今更こんな風に傷つく権利など、自分にはない。
あまりにも、じっと見ていたせいなのか。
景吾の視線がこちらへとまわされた。
視線が絡み合う。一瞬のことだった。驚愕に見開かれた目は、やがて冷たい色を放ち、嫌悪のようなものさえ滲ませて。
それを、受け入れなくてはならない、とそう思った。
少しの時間、見つめあって。景吾は、去っていった。

「………リョーマ、大丈夫なのアナタ?」
「…………リョーマ?」

翔吾にまで心配をかけてしまったらしい。リョーマはおかしそうに笑った。

「なんでそんな心配そうなわけ…二人とも……」
「だって……」
「リョーマ、凄い痛い顔してた…」

翔吾の顔に、唇が震えた。痛い顔?

「違うよ、翔吾。そんなことない」
「……………リョーマ……?」

翔吾のちいさな身体を抱きしめて、そして呟いた。

「そんなことない………」

傍にいるのが自分ではないことが、嫌だったとでもいうのか。
自分から手を離した。それも一番ひどいやり方で。
あのときの、冷たい冷たい目を忘れたことは一度としてない。
それなのに、どうしてまた新たに、痛みを覚えているのか。
自分の、甘えた考えに吐き気がした。

「リョーマ」

翔吾の声に、顔を上げる。

「俺はリョーマが好きだから」

思わず笑いそうになった。

「…………ありがと翔吾。俺も愛してる」

母親が、クスクス笑う声がして。
翔吾を抱きしめたまま、立ち上がった。

「なんで俺……抱き上げられてんの…?」
「………なんとなく。さ、行こ」
「リョーマ!」

嫌がる翔吾の、重さを実感しながら。
あぁ、大きくなったなぁなんて、思いながら。
泣きそうになった。

なぜだかわからないけれど。










「リョーマ、お客さんよ」

少しだけ、顔が強張っているように思えて、リョーマは不思議そうな表情を浮かべた。

「誰?」
「いいから。会えばわかるわ」
「ふぅん……翔吾、ちょっと行ってくる」

テレビの画面に夢中の翔吾は、ひらひらと手を振って見せた。苦笑しながら、客の待つという、応接室へと歩いていく。
扉を開けて、思わず固まった。

「……………久しぶりやなリョーマ」
「…………侑士……」

呟いて、呆然とした。
景吾との付き合いは、氷帝のメンバーも知っていたことだった。あの頃は、氷帝の皆ともとてもとても仲がよくて。いつも一緒にいた。景吾がいなくても、まるでそこにいるのが当然なように、自分はその輪の中にいた。
そして景吾と別れたことも、景吾から聞かされていたはずの、一番…そう、自分達二人に親しかった、侑士。
あんなことがあったからこそ、もう自分になんて会いにくるはずがないのに。
どうしてここに、いるのか。全く分からなかった。

「なんで………?」
「跡部から、な。見たっちゅう話聞いてな」
「…………それで?」
「それで、て……ご挨拶やな……」

なぜ、こんなにも優しく笑える…?

「………そうじゃなくて! そんなこと言いたいんじゃない!
なんで……なんで………」
「…………俺は当人ちゃうし。別にリョーマに対して怒りも何も湧いてこぉへんで?
そら、跡部は別やろな。アイツは、振られた当人やし? しかもホンマにベタ惚れやったしな」
「…でも!」
「まぁ……リョーマが跡部のこと振ったせいで、一時期跡部が荒れてごっついことなったりしたけどなぁ」

でも、過去のことや。
そう、侑士が言うのを、リョーマは泣きそうな顔で見つめた。

「俺は、リョーマに会ったいう話聞いて、久しぶりに会いたい思っただけやで。迷惑なん?」

首を振った。迷惑だなんて思うはずがない。嬉しいと思いこそすれ。

「迷惑なんて…思うわけないじゃん……何言ってんの侑士………」

嬉しそうに笑ってくれる侑士の瞳が、優しい色を湛えてて。だから、嬉しくなって、同じように笑った。








そうして、侑士はその後もちょくちょく遊びに来るようになった。
そのせいか、翔吾は侑士が大嫌いになってしまい、最近翔吾の機嫌が著しく悪い。いつも一緒にいた自分が、今は侑士のせいで傍にいてくれないということが、とても腹立たしいらしい。
だからといって、昔の友達に会うことを取り上げてまで、一緒にいたいと駄々をこねることはしない。そんな翔吾の、出来た優しさが、リョーマはとてもとても嬉しかった。







「なぁリョーマ、結婚してくれへん…?」


そして。

その言葉は唐突だった。

「何、言ってんの?」

冗談だと思った。

「なぁ…結婚、してくれへんか?」

けれど、尚も言葉を重ねてくる侑士。

「冗談……でしょ?」
「冗談でプロポーズなんて…出来るかアホ」

侑士の顔は、真剣だった。これ以上ないくらいに、真剣だった。

「何か………あった………?」

そう問えば、痛そうに顔を歪める侑士がいて。嫌な予感がした。
無言で、手紙を差し出してくる侑士。
手渡された手紙を見て、苦笑した。否、それしか、反応しようがなかった。

「結婚の…招待状、ね。ご丁寧に、越前リョーマ様って…書いてある」

アノヒトは、決して自分を許しはしない。それは分かっていた。そして、それを甘んじて受け入れるしかない自分も。

「…………それで。心配してそんなこと言ったの? 侑士……」
「………跡部、お前のこと許してへんから、な。俺と籍でも入れとったら、少しは和らぐんやないか…思て……」
「そんなことのために結婚しようとしたわけ…?」
「リョーマが好きなのは…ホンマや。せやから、一石二鳥なんや。俺にとってはな」

苦笑する侑士に、同じように笑った。
どうして、そんなに優しすぎるんだろう。

「式行くつもりやろ? アイツは、お前を攻撃してくる気なんやで?」
「仕方ないんじゃない?」

そう、それは仕方のないこと。式場で何を言ってこようと、それを甘んじて受け入れることしか、自分には出来ない。
あのときの自分には、あれが精一杯だったと思うから。景吾の未来を奪い去ることなど、自分には出来なかったから。
だから、それに対する景吾の怒りは受け入れなくてはならない。それがどれほど、自分を傷つける言葉だったとしても。
リョーマが薄く笑った、その時、だった。聞こえてきてはいけない声が、その場に響き渡った。

「リョーマ傷つけるなんて最悪、その男」
「翔吾!」

翔吾の乱入に、侑士が不思議そうな顔になる。けれどそんなことになんて構ってられなかった。
景吾に近しい侑士に、翔吾の存在を知られるわけにはいかないから。それを翔吾も分かっていたはずなのに。

「翔吾なんでここに! 向こう、行って、ホラ!」

思わず立ち上がって、翔吾の手をとった。けれど、翔吾の瞳は、侑士を射抜くように睨み付けて動こうとしない。

「なんやお前……リョーマ、誰なん?」

相変わらず不思議そうに、翔吾を見つめつつ。侑士は尋ねてくる。
翔吾が、笑った。

「リョーマの、子供、だよ」
「なっ………」

侑士が絶句して、翔吾を見つめた。
涙が出そうになった。どうして、翔吾は。

「翔吾、駄目………………駄目……」

何を言おうとしてるのか。何を続けようとしてるのか。
嫌な予感は止まることなく。抱きしめて無理矢理連れ去ればいいのに、どうしてか足が動かない。
硬直したように身体は動きを止めてしまっている。

「……………言わないで………翔吾………」

必死になって。翔吾を見つめる。


けれど────



「その招待状寄越した、バカな男の、でもあるけどね……」


翔吾は、吐き捨てるように────そう続けた。










to be continued