とびっきりに綺麗に笑って。

高慢そうに見えるように。

笑って。



言った。




「別れよ?」












【 彼方へ  】 前編












その日は。
ひどく胸が落ち着かなくてしょうがなかった。

ざわざわざわざわ、止まらない。

原因なんて簡単だ。

先延ばしにしたくてしょうがないのに。
その時なんて永遠に来なければいいって思うのに。
容赦なく時は迫ってくる。


きっと一生忘れないであろう瞬間が。







数日前。
たまたま出かけた先で、思いもよらない現場に遭遇した。

「捨てないでっ! お願いだから景吾ぉぉ!」
「だから遊びだっつったろバカか?」
「おねがっ…おろすから、子供おろすからぁ!」
「ぁあ? 勝手に妊娠しといておろすおろさねぇじゃねぇだろ。大体ホントに俺の子かよ?」

嘘くせぇ。そう、景吾が呟いたのを見て、自分の心臓がお腹がきゅうと痛むのに気付いた。
そう、跡部景吾は、浮気なんてしょっちゅうで。最初の頃はムカつくとかなんとか言い合ってたのも、しまいには慣れてしまった自分。
だってどうしたらいい?
自分の痛みを、彼は理解してくれない。どれだけ痛むか、どれだけ辛いか、景吾は分かってくれないのだ。そして、自分の中には別れという選択肢は出てきてくれない。
だから、慣れてしまうことしか、自分には出来なかった。その状況を、仕方ないのだ、と。どうでもいいのだ、と無理矢理言い聞かせて。
傷つかないように。リョーマは必死だったのだ。

「ま、金だけは出してやってもいいけどな? テメェのへまは自分で責任持って何とかするんだな」
「ヤ! ヤダよっヤダヤダっ! 私別れたくないよぉ!」
「ウゼェんだよお前。大体付き合ってもいねぇのに、どうやって別れるんだ?」
「え……」
「俺はお前と付き合った覚えはねぇよ。セックスした覚えはあるけどな」

呆然と立ち尽くす女性。知らずに涙が流れた。
こんな男なのに。
そうだ、こんなヒドい男なのに。
どうして自分は好きなんだろう?
好きで好きでたまらないんだろう?

ズキンと胸が痛んだ。

……理由は分かっている。
だって、自分には決してあんな風に接したりはしないから。
そう、越前リョーマ、はちゃんと大事にされてるのだ。ほかの女に対してはたとえ最低最悪な扱いをしていたとしても。越前リョーマ、にだけは。ちゃんと。

「大体、子供なんてウゼェだろうが。そんなモン作って何嬉しそうにしてやがんだよ」
「……よろ…こんでくれるって…おもった…から……」
「ぁあ? 誰が喜ぶんだよそんなくそ面倒くせぇもん」
「だって、わたし…たちのコドモ…だよ?」
「ホントウゼェなお前。確かに俺はもう結婚出来る歳ではあるけどな。だからってまだ結婚するつもりはねぇし。人生縛られてたまるかそんなガキなんかによ」

嗚咽を洩らして、そのまま蹲る女に、面倒くさそうに髪をかきあげる景吾。
そして財布から適当に札を抜き出すと、そのままそこに落として、去っていった。

身体が震えた。寒いわけじゃなくて。恐怖に。震えた。

だって、自分がああならないとは決して言えない。
そうだ、いつか来る未来、かもしれない。
あんな風に、いつか面倒くさいって思われるかもしれない。
今は大事にされている。でも、飽きないなんて保障はないのだ。



怖くて怖くて仕方が無かった。





だから。そんなことを考えて日々を過ごしていたから。
気付いてしまったのだと思う。
そう、自分の体調の変化に。




「………来て……ない………」

いつもだったら、来なくてはならないのに。
体調がおかしいということはなくて。
嘘だ、と思った。
そんなことは嘘だ、と。

「…………嘘……うそだよ……」

混乱する頭で、一つの可能性を必死になって否定していた。
それしかないと分かっているけど。
どうしてもそれを事実にはしたくなかった。

「…………景吾」

だって。


終わってしまう───











あぁ。どうして神様はイジワルばかりする?

あの人は、純愛なんて、出来ない人なのに。

一人だけでなんて満足できない人なのに。

縛り付けたりなんて出来ないのに。

ドウシテ。

ドウシテ。

ドウシテ───










妊娠検査薬が、カタンと手から滑り落ちた。
ドキドキなんてしなかった。
ただただ。涙が出た。

押し潰されるくらいの苦しさに。
リョーマは悲鳴のような嗚咽を洩らした。












産むのならアメリカで。
これはずぅっと昔から心に決めていたことだった。
長い間病院に拘束されてたくなんてないから。
日本じゃなくてアメリカで。

「…もう決めたの?」
「ん。決めた。産んでくる」
「………別に、こんな歳で子供産まないで、なんて言うつもりはないけど。でも…いいの?
ただでさえ縛り付けられるのよ? 子供は手がかかるんだから」
「それでも。だって殺せないもん俺」

景吾の子供。殺したりなんて出来ない。

「しかもシングルマザーで、ねぇ? 全くリョーマもイバラ道が好きなのね」
「だってしょうがないじゃん。こんなことで、景吾縛り付けるわけにはいかないもん」
「でも、話したらいいじゃない。子供が出来たんだけどって。受け止めてくれるかもしれないわよ」
「…もしかしたら受け止めてくれるかもしれないけど…でも、俺、景吾が、子供に人生を縛り付けられたくないって言ってるの聞いたから。だから言うわけにはいかないの。
だって、俺は産みたいって勝手に思ってる。そう俺の勝手。それに景吾巻き込むわけにはいかないじゃん」
「………………バカな子ね…もう」

くしゃって髪を撫でられた。少し乱れた髪を撫で付けながら、そういえば、と付け足す。

「…病院は知り合いのトコいく、連絡しといた。生んだ後も誰かに教わって何とかなる。何も心配いらない」
「私は、リョーマのことは心配なんてしてないわ。だってアナタは強いから。私が強い子に育てたから。
信じてるもの。苦労したって辛い思いしたって、絶対に戻ってこれるでしょあなたは」
「さすが母さん。分かってるね」
「逃げ道はちゃんとココにあるから。それだけは忘れないでね。どんな風になったって、私はあなたの味方。そしてアナタの母親」
「ん」

頷いたら、強く強く抱きしめられた。
涙を出さないように、必死になって唇を噛んだら、上で笑う声。泣きなさいって言われたけれど、意地で泣かずにいたら可愛くないって言葉と共に頭を撫でられた。
だから一緒になって笑って。目を閉じた。








まるで愛の告白をするみたいに、前日の夜は眠れなかった。



そして朝起きたらどうしてか震えが止まらなくて。
でももう時を止めることなんて出来なくて。



お腹をさすった。
存在するいのちに、どうしようもなく泣きたくなる。
こんなところで止まってるなんて駄目だから。
そう、自分はちゃんと全てを断ち切らなくちゃ。
前へ進めない。











その言葉が、自分のくちびるから放たれたその時。
その場の時がカチンって止まったように思えた。
バカみたいにこっちを見つめてくる瞳。言葉が本当か嘘か、見極めようとしているみたいだった。

「冗談じゃないよ。本気」

だから先に言ってみた。嘘じゃないよって。笑いながら。

「ぁあ?」

途端に険しくなる表情。
心臓がきゅうと締め付けられるように痛んだ。

「だから、別れようって言ったんだけど」

くちびるから放たれる言葉。そう自身が放った言葉。
その言葉が抱える意味に、痛くて痛くて死んでしまいそうになる。

───デモ。

「オレ他に好きな人出来ちゃったんだよね?」

だから別れてくれない?
そう言葉を続けて笑う。

ガァン!って大きな音が響き渡った。

「ふざけんなよテメェ、何一方的に抜かしてんだ」

思わず瞑ってしまった目を開けたらゴミ箱が倒れてた。冷たい目をしてる大好きな人。
ハァとため息をついた。くちびるが震えそうでぎゅうと拳を握り締める。

「景吾、飽きちゃった。いい加減一緒にいるのもマンネリなんだよね。つまんない。だから別れて欲しいんだって言ってんの」

その言葉を受けて、スゥッと空気が冷えた。
許しがたい一言、を自分は今言ったのだろう。飽きた、なんて。
そうだ、言われたら誰だって傷つく。なんて一方的な言葉。相手を傷つける言葉。

「ふざけんなお前。もうお前の顔も見たくねぇよ」

案の定、軽蔑、嫌悪、全部の負の感情目に宿した景吾が、こっちを見据えた。
どうでもいい、ってその目が言ってる。うん。分かってる。
だから、もう、忘れて?
越前リョーマのことなんて。そう自分と付き合ってたって事実も全て。忘れて?

「ん。もう会わないよきっと」

涙が零れそうになるのを堪えながら笑う。最後まで。
景吾はもっともっと傷ついてるから、そうだ、自分が傷ついたって思うのは間違ってる。

「バイバイ景吾」
「あーじゃあな、二度と会うこともねぇだろうがな」

それが、最後の言葉。
心に刻み付けて。背を向けた。









背中が悲鳴をあげてるみたいに感じた。
自分から離れていってるのに。
身体が、振り向いて景吾に抱きしめられたいって勝手に思ってる。

角を曲がって、その場にしゃがみこんだ。

「………景吾……景吾……好きなんだよ……大好きなの……」

手のひらで顔を覆いながら、呟く。
この言葉が、最後の言葉だ。
もう、口には出してはいけない。
好きだなんて表に出しちゃいけない。
こんな思いを抱えたままじゃ、大切になんて育てられない。

「…………泣いて……る?」

流れてく涙。景吾を恋しんでる涙。
そんなもの、すべて、流れてしまえばいいと思った。









────いつか笑って過ごせる日がくる?

いい思い出だと。
そう、笑って言える日がくるのかなぁ?

今の自分は、こんなにも──辛くて、切なくて、仕方ないけれど。

いつか、笑って。

もう一度景吾に、会えたらいい。

その時は、子供も一緒に。
景吾にはそのことは内緒。もしかしたら奥さんと一緒かもしれない。
そして景吾とその奥さんとの間の子供と一緒に。
もしも。まるで兄弟みたいって言われたら、泣いてしまわないように気をつけなくちゃいけない。
だってそれは景吾の子供じゃなくて、あくまでも越前リョーマ、の子供なんだから。
そして笑ってまたねってさよならする。

それはきっといつか未来に。


そう。



いつか────








三日後。

リョーマは単身渡米した。
出された退学願いは、青学高等部を騒然とさせたが。
リョーマの父も母も理由を述べようとはしなかった。











to be continued