「聞いてくださいリョーマ様っ!!」

 と、大層慌てた様子でバタバタと走り寄ってきたメイドの一人に、リョーマは出掛かっていた欠伸を噛み潰した。さすがに欠伸する姿をメイドに見せるのはどうかと思ったのだ。もっとも気付かぬうちに欠伸の瞬間など幾らでも目撃されているだろうことは承知の上だったが。要するに気分の問題というヤツである。

「何?」

 ここ、跡部家のメイド達は基本的に取り乱さぬようにと厳しく躾けられているゆえ、このような慌てた様子は早々見せる事は無い。それがこんなにも慌てた様子を見せているということは、さぞかし面白い、もとい大変な事態が起こっているということだ。
 目の前で立ち止まったメイドが、ゆっくりと息を整えた。ついで、ゴクリと息を呑むとギュウと拳を握り締めて叫んだ。

「景吾様が浮気なさってらっしゃるみたいですっ!」

 リョーマは我知らず噴いた。


















【浮気のススメ】

















 今現在、リョーマはボンヤリ椅子に座っていた。激しく脱力していた。
 景吾が浮気、景吾が浮気。
 予想外すぎる事態だった。
 結構考えがまとまらないものだな、と妙に冷静に考えてみるリョーマ。
 
「…………というか、俺は一体どうすれば…?」

 景吾を責める?
 それは少し考えものである。大体、もしも景吾がマジで浮気してるとして、あの男の性格を考えてみると対応は二通りしかないのだ。すなわち、「は? 何バカ言ってんだ?」と「浮気ぐらい気にすんじゃねぇよ」のどちらか。
 ああ、考えれば考えるほどその二つのどちらかを言うとしか思えない。ある意味何とも分かりやすい。

「つかそもそも、景吾もバレるようにするってのが理解出来ないんだけど」

 俺だったらもっと上手くやるし。とか呟いてリョーマは唇を尖らせた。妻に心配かけさせるなんてもってのほかだ。俺だったら夫に心配かけないように浮気してみせる!と意気込んでから、はた、と話の方向性がおかしくなっていることに気付く。

「………うーん……」

 これはむしろ別れ話を切り出すべきなのか、と少し考えてみる。別れ話を切り出すリョーマと、それを聞く景吾。
 ああ、いい考えかもしれない。
 だって、妻であるリョーマにバレるように浮気するということは即ち、俺と別れてくれという意思表示だと考えるとしっくり来る。むしろそれしか考えられなくなってきた。

「あ、そっか、慰謝料付きで別れてやるよってことか!」

 ポン、と拳を手に叩きつけてリョーマは立ち上がった。つまり、慰謝料を払うぜということを暗に仄めかした別れ話であるというワケである。さすがに、景吾は別れ話も一筋縄ではいかない男だ。
 それならばそれで、しっかりその通りに行動してやらねばならない。リョーマは決意を胸にキラリと瞳を輝かせた。

「…………前に離婚届どっかにしまっておいた気が……」

 そして、広い広い部屋のどこかに存在している(はずの)離婚届を探して、部屋荒らしを始めたのだった。














 景吾が帰ってきたその時、跡部邸は何やら葬式のように静まり返り暗い雰囲気を醸し出していた。
 一体何が起こったのかと周りをキョロキョロと見つめていると、自分の母親が鼻息荒くこちらへと向かってくる。

「貴方がそこまでおバカだとは思わなかったわこのバカ息子! 否、むしろこの場合は下半身バカ!」

 突然の言葉に、景吾は何が何だか分からないままに顔を顰めた。

「あ? 帰ってくるなり何だっつんだよ」
「リョーマちゃんを傷つける人間はすべからく敵よ! いえ悪よ! むしろ害虫よ!」

 かなり言いたい放題であるが、基本的に言ってることは頷ける。確かにリョーマを傷つける人間は敵であり害虫だ。塵芥と言ってしまっても景吾としては一向に構わない。何しろ存在自体が許しがたいものだからだ。
 しかし、それに頷けるからといって、なぜ今こんな当たり前の言葉を実の母から聞かされるのかが分からなかった。分からないついでに、周りにいるメイドやら執事の目線が激しく冷たいことも気になる。
 一体何が起こっているというのか。

「そりゃあ確かに貴方は男だから、たまにはつまみ食いくらいしたくなるのも百歩譲って分からなくもないとはしても、バレずにやりなさいよせめて! このアホ! カス!」

 実の息子相手にかなりの強烈なお言葉を吐いてくれる。

「バレずに? つまみ食い? 何の話だ?」
「浮気よ!」

 予想外な言葉に、景吾は思わず噴き出した。

「はぁっ!? ちょっと待て! 浮気ってそれは俺がか?」
「当たり前でしょう! 貴方以外の誰かの浮気でどうしてリョーマちゃんが傷つくのよ」
「……………俺がか?」

 思わず考え込んでしまう景吾である。自らの行動を反芻してみるが、浮気した覚えなど全くもってない。
 そもそもそんな暇も無ければする気も起きないのだ。なぜって自分の興味対象はどこまでもリョーマ一人である。他の者など正直どうでもいい。

「…………景吾、貴方全く心当たりないの?」

 少々頭が冷えたのか、それとも考え込んでいる景吾の様子に事態のおかしさを感じ取ったのか、母親が真剣な様子で尋ねてくる。それに困ったように頷いて景吾は苦笑した。

「なんでリョーマ以外の女に興味湧くっつうんだよ」
「まぁ、それはそうね。確かにリョーマちゃんが傍にいて他の女に目がいくかって、いくわけないわね」

 納得いったのか、うんうん頷いている。
 ここらが自分と母の似たところだと景吾は思う。女の趣味が一緒な辺りが。

「でもそうなると、不思議なのはどうしてリョーマちゃんがあんなこと言ったかなのよね」
「あ? 何がだ?」
「景吾が浮気してるということなので、とりあえず離婚しようかと思いますってハイ、コレ」

 手渡されたのは記入済みの離婚届である。

「……………」

 黙ってそれを見つめる。どこをどう見ても記入済みなことと離婚届なことは変わらない。

「で、当のリョーマはどこだ?」
「越前家よ」
「……………」

 頼むから皆止めろよ、と景吾はとてつもない疲れを感じた。

「そもそも、なんで俺が浮気って話になったんだ?」
「あ、それは私です」

 と、周りで見つめていたメイドの一人が手を挙げた。そしてしずしずと近づいてくる。
 ある意味規格外なメイドである。リョーマの実家帰宅という原因を作り上げておいて、自ら名乗り出ることが出来る辺り。

「で、何が原因なんだ?」
「忍足様が当屋敷を訪れた上、景吾様に言付けを残して帰られまして、その言付けが『浮気はバレないようやらなあかん。今からでも気つけや、って伝えたって』だったもので、思わずリョーマ様にご報告を」
「………そりゃ確かに浮気してるって思うわよね」
「お友達でいらっしゃいますし、忍足様なりに景吾様の何がしかにそれらしいものを感じ取ったのだろうと判断致しました」

 メイドの言葉に、考え込んでいた景吾がボソリと呟いた。

「……………忍足のヤツ、最近女と別れたっつってたな……」
「御自分の経験からの忠告ということだったのでしょうか?」
「いいや。アイツのことだ、ついでだから俺たちに波風立てようって腹だろうな」
「…………忍足君ってリョーマちゃんのこと好きだものねぇ」

 母がため息交じりに呟いた。
 沸々と怒りが湧いてくる。そもそも人の妻にちょっかい出せないからってわざわざ小癪な手を使うんじゃねぇってなもんである。時折物凄く憎らしくなる相手だ、忍足侑士。

「とりあえず迎えに行って来る」
「ええ。いってらっしゃいな」

 メイド達一同のいってらっしゃいませと、執事の「二人揃ってのお帰りお待ちしております」を背後に聞きながら、景吾はリムジンに乗り込んだ。















「原因は忍足のバカだ」

 現れるなり景吾は単刀直入に言った。

「は?」

 思わずマジマジと景吾を見て、リョーマは首を傾げる。
 あまりにも唐突過ぎて、怒りとかの感情が全く湧きもしない。もしも景吾がそれを狙ってこの言葉を吐いたというのならば、とても的を得た発言だといえよう。

「それはつまり、浮気の原因が侑士にあるってこと?」
「違ェよ。この出来事全体の原因だ」
「…………?」
「メイドの一人に詳しいこと聞いたか?」
「侑士が浮気するならバレないようにってアレ?」
「ああ、それだ」

 景吾が神妙な顔で頷いた。けれど、いまいち分からない。
 跡部邸のメイドは、突出して優秀な者ばかりが集められているだけにその記憶力は信用に足る。そんなメイドの言った言葉を思い出してみても、景吾の言う浮気の原因には特に思い当たらない。

「でも、確か今からでも気をつけないとって言ってたって」
「いいか、良く聞け。
 アイツは最近、女と別れた、というか多分振られた」

 景吾は言い放った。
 決定的過ぎる言葉を。
 リョーマは脱力して、そして悟った。

 ────そうか。

 ────つまりはそういうことか。

 次の瞬間には凄まじいほどの怒りがこみ上げた。何よりいいようにやられたこの状況が許しがたい。言ってしまえば騙されたのだ。この自分が。こんな簡単にあっさりと。
 こんな屈辱を受けたままになどしていられない。いられるわけがない。
 リョーマは艶然と微笑んで景吾に問いかけた。

「……ねぇ、景吾? 侑士ってどういう復讐が好きだと思う?」

 今ならば、背後に炎でも立ち昇ってすらいそうである。それくらい、今の自分は怒りの感情が全てを取り巻いている。

「ああ、予想もつかねぇからありとあらゆるものやるのもいいと思うぜ?」
「あ、それ凄い楽しそうだね。じゃ、とりあえず思いつくもの全部やろう」

 笑顔を浮かべて言えば、景吾もニヤと笑って同意した。











「で、出来心なんやって! 聞いてや二人とも!」

 必死な忍足侑士に、二人は綺麗過ぎる笑顔を浮かべて言い放つ。

「残念、聞こえない」
「俺もだ」
「嘘や! 聞こえてるはずやー!」

 侑士の叫びはその部屋に吸収されるように消えていった。


 二人のお仕置きがどんなもので、一体どれだけの期間なされたかは、跡部家メモリーにしっかりと記されているという。

















THE END



■跡部家メモリーは、別名「リョーマちゃん観察日記」とも呼ばれている、らしい。