───DAHLIA act1














 ───嘘。嘘だ。

 こんなもの、信じない。











 視界が赤い。頭がガンガンする。
 自分の目が、耳が、受け取った全てのことは、嘘だと。
 誰かにそう言って欲しかった。
 目の前で繰り広げられるそれを、目に映るその光景を、もう見たくなくて目をつぶる。
 けれど、聞こえてくるのだ。そして何より、目に映ったその光景はまるで焼き付けられてしまったように、脳裏にこびりついている。
 乾き切った喉がひりひりした。唾すら飲み込めないで、リョーマはぼんやりと立ち尽くすことしか出来なかった。
 
 何だろう。
 何なんだろう、これは。

 諦めたように目を開けば、やっぱり、同じ光景がそこにはあって。
 なぜか笑いたくなってしまった。
 だって、どうしたらいいというのか。今の自分に冷静に何かを考えることなど、絶対に不可能で。
 詰ればいいのか。
 怒ればいいのか。
 嘆けばいいのか。
 ああ、何をしたらいいんだろう。それすらも分からない。

 気付けば、頬が温かい。
 涙が流れていた。

「好きだよ」

 聞こえてくる声に、リョーマは唐突に理解させられた。

 だってそれは、別れの言葉。

 愛す女は一人でいい。
 あの人はそう言った。 
 つまりはそう。それしかない。
 そう、それしか、答えは存在しないのだ。
 絶望的な気持ちで現実を受け入れれば、その結論。

 どうして、なんて思うのはいけないこと。
 これが彼の選択なのだ。彼が選んだ答え。
 けれど。
 リョーマにはその選択は辛すぎた。嗚咽すら混じらない、ひたすら流れ落ちる雫達は、リョーマの苦しみを表している。
 くるりとそれに背を向けて、リョーマはただその場を後にした。
 別れの言葉は受け取った。
 ならば、自分はただ、消え去ればいいだけだ。


 そして後に残るのは。
 愛し合う男と女。

 恋人の不二周助と、知らない女の人。


















「おんやぁ? おちび元気ないねぇ、どした?」

 突如聞こえてきた声に、リョーマは大した反応もせずにぼんやりしていた。そのリョーマを気遣ってか、声をかけた主、菊丸英二はリョーマの顔を覗き込むようにしゃがみ込む。
 そして、硬直した。

「泣いて……えっ!!? 何っ!? 何があったのおちびっっ!!」

 肩を掴んで真剣な面持ちで尋ねてくる。
 呆けたようなリョーマは、うっすらと、切なくなるような笑顔を浮かべた。

「センパイ、どうしたんスか?」

 瞳から涙があふれる。後から、後から。けれど、まるでそれに気付かないようにリョーマは首を傾げる。流れる涙はそのままに。
 そんなリョーマを痛ましそうに見つめて、菊丸は知らず、その小さな悄然とした様子の身体を、きつくきつく抱きしめていた。

「……センパ……苦しいっス」

 振りほどこうともせず、されるがままで。
 己で自覚していないであろうその涙。
 ハラハラと零しながら。
 リョーマは言う。
 菊丸には、何があったのかなんて問いただすことは出来なかった。
 だって、彼はこんなにも傷ついているのだから。その傷口をえぐるマネなんて、出来やしない。
 そう、菊丸はリョーマに惚れていた。全てをかけて愛していた。
 ただただ、彼の幸せだけを願っていた。人は馬鹿だというのかもしれない。偽善者だと罵るのかもしれない。愛しい者が他の人の手で幸せになるのを良しとするなんて、愚かだと。
 けれど菊丸は、リョーマが不二周助を愛していることを知っていたから。そして何より、不二という男がリョーマを愛していて、幸福に導いてくれると分かっていたから。だからこそ、そんな馬鹿みたいな自分で、いられたのだ。
 それなのになぜ、リョーマは一人で泣いているのだろう。どうしてそばにいない。慰めてやらない。
 恋人を一人で泣かせたりなんて、どうしてそんなことを。
 
 あぁ、リョーマが、愛しすぎて。

 抱きしめるリョーマの身体に、匂いに、その弱った表情に、付け入ってしまいそうになる。
 腕の中の少年は、いまだ泣き続けたまま。
 だから菊丸は泣き止まぬ少年を腕に抱いて、ただ静かに待つことにして。
 それがいつになろうとも。
 愛する少年のために、ただそれだけに、自分の時間はあるのだから。

















 愛していた。
 あの微笑も。口調も。彼の存在全てを、何よりも誰よりも愛していた。
 そして自分は、彼に愛されているのだと思っていた。けれど、それは間違いだったのだ。
 大事な話があるから来て欲しいと、そんな内容の手紙に、心浮き立たせた自分が愚かだったのだ。
 そう、確かにそれは、大事な大事な話だった。ただ、リョーマが苦しんでしまう内容だったけれど。
 だって、もっと早くに気付かなくてはならないことだったのに、リョーマはずっと気付かずにいた。
 あの人に愛されていると思っていた。けれどそれは、とても大きな間違いで、してはいけないことだったのだ。
 なぜなら、嫌いな人への愛の言葉は、どれほど苦痛か計り知れない。好きでもないのに好きだと言う、その行為にどれだけ痛みが伴うのか、リョーマは想像はつかないのだけれど。優しいあの人のこと、こちらを傷つけたくないと思っていたのかもしれない。それを、リョーマはずっと、させ続けていたということになる。
 なんて、なんて辛いことを強いてしまったのだろう。 
 今、そのことに気付けたことをリョーマは嬉しく思わなくてはならないのだ。
 こんな、苦しいなんて思ってはいけない。
 喜ぶのだ、と自分に言い聞かせるように叫ぶ。
 ずっとずっと、今日だって、不二は同じ笑顔を浮かべていた。同じ笑顔で、リョーマが好きだよ、と言っていた。
 そんな風な行為を、不二はただ優しさからしていたのだ。リョーマへの愛もなく。他の女性を愛するその身体で。
 開放してあげなくてはならない。
 リョーマから出来ることはそれだけだ。
 不二を捕らえ続けたその罪は、とてもとても重い。

 ──ああ、でも、それでも不二を愛することがやめられない。

 なんて、なんて、浅ましいのだろう。
 その愛が不二にとっては迷惑なものならば、それを消してしまわなければいけないのに。
 どうして。
 どうして、こんなにも愛しい気持ちは溢れるのだろう。

 













 泣き疲れて眠りについた少年を抱きかかえながら、菊丸は静かに天を仰いだ。
 この少年だけは常に幸せであれと願うのに。どうして叶わないのだろうと、切ない想いで天を仰ぐ。
 涙の残るその頬に口付けをおとして。
 菊丸は願った。願うことしか出来ない自分がとてもとても下らない存在に見えたけれど。
 リョーマのこれからに幸福が訪れるように。涙を流すのは喜びのそれだけでいい、と。
 そして出来ることならば、その幸福を作り出すのが自分であったならいい。
 そんな、叶わぬ願いを。

「ん…」
 小さな声を漏らして、リョーマが身をよじった。
「おちび、起きた?」
 ぱちぱちと可愛らしく瞬きするリョーマ。その様子におかしなところはどこも無い。いつも通りのリョーマだった。ただ泣きはらした目が痛々しいだけで。

「あれ、ここで何してるの?」

 菊丸の姿を目に捉え、リョーマはきょとんとした表情で言った。菊丸は思わず微笑んだ。とても優しく。

「別に何もシテナイケド?」

 リョーマの心情がおだやかそうでホッとする。
 ああ、君が幸せになるためなら、どんなコトでもしてあげる。
 君が幸せなら、それでいいんだ。
 君が、君だけが全てだから。越前リョーマという存在が、菊丸英二にとっては最優先されるべきもの。

「嘘つき。ナンカやらしいコトしてたんじゃないの? エージのスケベ」

 エージと呼ばれて。
 嬉しくて嬉しくて。
 けれど、そこで気付かされる。リョーマの異変に。おかしさに。

「どしたの、おちび?」
「何が? そんなことより、なんでエージは俺のことおちびなんて呼んでんの! リョーマ!」

 可愛らしく怒る姿が、誰かと共にいるそれとダブる。
 不二に怒る、その姿と。

「リョーマ?」
「ん。大好き、エージ」

 言われた言葉に、喜びよりも、愕然とした。
 このコが、不二周助を心底愛していることは知っていたから。
 だって自分は、切なくなるくらい懸命にその姿を目で追っていたから。
 だからリョーマの恋を応援し、すらして。

 それが実って喜んで。
 だからリョーマのこの言葉はありえない、のに。
 自分を好きだ、なんて嬉しい言葉は、決して決してありえない、のに。

「──おちびは不二が好きなんでしょ?」

 必死で紡いだ言葉に、リョーマがパチクリと瞬きをした。

「誰その人? 俺が好きなのはエージだよ。その人のこと好きなワケないじゃん」

 無邪気にそう言うリョーマに菊丸は泣きたくなった。
 
 おかしくなってしまうほどに、傷ついたリョーマのその姿。無邪気に笑って、好きだと言う。不二に対してのその微笑、それを自分に向けて。
 リョーマを傷つけたのは不二なのだと、もう菊丸には理解できた。
 存在を抹消できる程、不二に傷つけられたのだと。
 泣きたい気持ちになった。
 リョーマの受けた痛みを思って。あの涙を、思い出して。
 だから。

「そーだねリョーマ」

 そう言って。
 リョーマの幻に付き合って。
 もしかして自分の精神が病んだとしても。
 君は決して傷つかないで。君は悪くはない。
 だって、ただ君を愛しただけ。
 君の幸せを望むだけ。
 ただそれだけ、なのだから。











───to be next





■DAHLIA改訂版。少しは読みやすくなってるといいんだけども。